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ドレッドノート (原子力潜水艦) : ミニ英和和英辞書
ドレッドノート (原子力潜水艦)[かん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
原子 : [げんし]
 【名詞】1. atom 【形容詞】2. atomic
原子力 : [げんしりょく]
 【名詞】 1. atomic energy 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)
: [ちから, りょく]
  1. (n-suf) strength 2. power 
潜水 : [せんすい]
  1. (n,vs) diving 
潜水艦 : [せんすいかん]
 【名詞】 1. submarine 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

ドレッドノート (原子力潜水艦) : ウィキペディア日本語版
ドレッドノート (原子力潜水艦)[かん]

ドレッドノート (HMS ''Dreadnought'', S101) は、イギリス海軍初の攻撃型原子力潜水艦。同名のイギリス軍艦 (:en:HMS ''Dreadnought'') としては7代目にあたる。バロー・イン・ファーネスヴィッカース・アームストロング造船所で建造された。
== 建造まで ==
イギリス海軍は1946年から、艦船用の原子力推進機関の設計について研究を行っていたが、1952年10月にはその研究の凍結が決定された〔Eric J. Grove, 1987, ''Vanguard to Trident: British Naval Policy since World War II'', The Bodley Head, ISBN 0-370-31021-7〕。第二次世界大戦後のイギリス海軍は、潜水艦の水中航続力の改善策として、旧ドイツ海軍から接収したヴァルター機関に着目し、その研究を進めていたためであるが、ヴァルター機関による非大気依存推進の研究開発は思わしい進展を見なかった〔Grove, 1987.〕。他方、アメリカ海軍1955年、世界初の原子力潜水艦ノーチラスを竣工させた。後日、ノーチラスは、第二次大戦を通じて卓越した技量を獲得していたはずのイギリス海軍対潜水艦戦部隊との演習に参加し、原子力潜水艦の優越性を発揮して見せた。イギリス海軍当局は原子力潜水艦の有用性を認め、第一海軍卿ルイス・マウントバッテン伯と潜水艦隊司令官サー・ウィルフレッド・ウッズの主導のもと、原子力潜水艦を建造する計画がたてられた〔John E. Moore, Capt., RN, 1979, ''Warships of the Royal Navy'', Jane's publishing, ISBN 0-531-03730-4〕。
当初の計画は設計から建造までを全てイギリスが行うというものであったが、先行するアメリカの技術を取り入れ、アメリカの原子力技術を利用することで、大幅に時間が切り詰められた。マウントバッテン卿と当時のアメリカ海軍作戦部長アーレイ・バークとの良好な関係は、アメリカからの助力を得ることを容易にした。このことは、当時のアメリカ海軍における核動力プログラムの責任者であったハイマン・リッコーヴァー少将の反対にもかかわらず進められた。リッコーヴァーはいかなる技術移転にも反対であり、マウントバッテン卿がノーチラスを視察するのを拒んだほどであった。しかし、それも1956年のイギリス訪問までのことであり、リッコーヴァーは反対意見を取り下げた〔Grove, 1987.〕。リッコーヴァーはスケート級に搭載されたS3W型原子炉の提供を望んだが、マウントバッテン卿は自身の影響力を行使し、スキップジャック級の完全な機関部 (S5W型原子炉を含む) に関する技術情報を入手した〔Grove, 1987.〕。この技術情報をもとに建造されたことから、この機関部は「アメリカ区画」 (American sector) と通称されたが〔アメリカ・イギリス相互防衛協定をも参照〕、事実上スキップジャック級の後部船体そのものといって差し支えない。エレクトリック・ボート社の協力を得たことで、船殻形状と建造実務において影響が見られるものの、機関部を除く船殻と戦闘システムの設計はイギリス自身の手によるものである〔Grove, 1987.〕。
ドレッドノートは1959年6月12日に起工され、女王エリザベス2世の臨席のもと、1960年10月21日トラファルガー記念日に進水した。1962年12月には原子炉が初の臨界に達し、1963年1月10日にはラムスデン・ドックにて初の潜入を実施した。1963年4月17日に就役し、最初期の原子力潜水艦の1隻となった。'Vanguard to Trident: British Naval Policy since World War II'', The Bodley Head, ISBN 0-370-31021-7〕。第二次世界大戦後のイギリス海軍は、潜水艦の水中航続力の改善策として、旧ドイツ海軍から接収したヴァルター機関に着目し、その研究を進めていたためであるが、ヴァルター機関による非大気依存推進の研究開発は思わしい進展を見なかった〔Grove, 1987.〕。他方、アメリカ海軍1955年、世界初の原子力潜水艦ノーチラスを竣工させた。後日、ノーチラスは、第二次大戦を通じて卓越した技量を獲得していたはずのイギリス海軍対潜水艦戦部隊との演習に参加し、原子力潜水艦の優越性を発揮して見せた。イギリス海軍当局は原子力潜水艦の有用性を認め、第一海軍卿ルイス・マウントバッテン伯と潜水艦隊司令官サー・ウィルフレッド・ウッズの主導のもと、原子力潜水艦を建造する計画がたてられた〔John E. Moore, Capt., RN, 1979, ''Warships of the Royal Navy'', Jane's publishing, ISBN 0-531-03730-4〕。
当初の計画は設計から建造までを全てイギリスが行うというものであったが、先行するアメリカの技術を取り入れ、アメリカの原子力技術を利用することで、大幅に時間が切り詰められた。マウントバッテン卿と当時のアメリカ海軍作戦部長アーレイ・バークとの良好な関係は、アメリカからの助力を得ることを容易にした。このことは、当時のアメリカ海軍における核動力プログラムの責任者であったハイマン・リッコーヴァー少将の反対にもかかわらず進められた。リッコーヴァーはいかなる技術移転にも反対であり、マウントバッテン卿がノーチラスを視察するのを拒んだほどであった。しかし、それも1956年のイギリス訪問までのことであり、リッコーヴァーは反対意見を取り下げた〔Grove, 1987.〕。リッコーヴァーはスケート級に搭載されたS3W型原子炉の提供を望んだが、マウントバッテン卿は自身の影響力を行使し、スキップジャック級の完全な機関部 (S5W型原子炉を含む) に関する技術情報を入手した〔Grove, 1987.〕。この技術情報をもとに建造されたことから、この機関部は「アメリカ区画」 (American sector) と通称されたが〔アメリカ・イギリス相互防衛協定をも参照〕、事実上スキップジャック級の後部船体そのものといって差し支えない。エレクトリック・ボート社の協力を得たことで、船殻形状と建造実務において影響が見られるものの、機関部を除く船殻と戦闘システムの設計はイギリス自身の手によるものである〔Grove, 1987.〕。
ドレッドノートは1959年6月12日に起工され、女王エリザベス2世の臨席のもと、1960年10月21日トラファルガー記念日に進水した。1962年12月には原子炉が初の臨界に達し、1963年1月10日にはラムスデン・ドックにて初の潜入を実施した。1963年4月17日に就役し、最初期の原子力潜水艦の1隻となった。', The Bodley Head, ISBN 0-370-31021-7〕。第二次世界大戦後のイギリス海軍は、潜水艦の水中航続力の改善策として、旧ドイツ海軍から接収したヴァルター機関に着目し、その研究を進めていたためであるが、ヴァルター機関による非大気依存推進の研究開発は思わしい進展を見なかった〔Grove, 1987.〕。他方、アメリカ海軍1955年、世界初の原子力潜水艦ノーチラスを竣工させた。後日、ノーチラスは、第二次大戦を通じて卓越した技量を獲得していたはずのイギリス海軍対潜水艦戦部隊との演習に参加し、原子力潜水艦の優越性を発揮して見せた。イギリス海軍当局は原子力潜水艦の有用性を認め、第一海軍卿ルイス・マウントバッテン伯と潜水艦隊司令官サー・ウィルフレッド・ウッズの主導のもと、原子力潜水艦を建造する計画がたてられた〔John E. Moore, Capt., RN, 1979, ''Warships of the Royal Navy'', Jane's publishing, ISBN 0-531-03730-4〕。
当初の計画は設計から建造までを全てイギリスが行うというものであったが、先行するアメリカの技術を取り入れ、アメリカの原子力技術を利用することで、大幅に時間が切り詰められた。マウントバッテン卿と当時のアメリカ海軍作戦部長アーレイ・バークとの良好な関係は、アメリカからの助力を得ることを容易にした。このことは、当時のアメリカ海軍における核動力プログラムの責任者であったハイマン・リッコーヴァー少将の反対にもかかわらず進められた。リッコーヴァーはいかなる技術移転にも反対であり、マウントバッテン卿がノーチラスを視察するのを拒んだほどであった。しかし、それも1956年のイギリス訪問までのことであり、リッコーヴァーは反対意見を取り下げた〔Grove, 1987.〕。リッコーヴァーはスケート級に搭載されたS3W型原子炉の提供を望んだが、マウントバッテン卿は自身の影響力を行使し、スキップジャック級の完全な機関部 (S5W型原子炉を含む) に関する技術情報を入手した〔Grove, 1987.〕。この技術情報をもとに建造されたことから、この機関部は「アメリカ区画」 (American sector) と通称されたが〔アメリカ・イギリス相互防衛協定をも参照〕、事実上スキップジャック級の後部船体そのものといって差し支えない。エレクトリック・ボート社の協力を得たことで、船殻形状と建造実務において影響が見られるものの、機関部を除く船殻と戦闘システムの設計はイギリス自身の手によるものである〔Grove, 1987.〕。
ドレッドノートは1959年6月12日に起工され、女王エリザベス2世の臨席のもと、1960年10月21日トラファルガー記念日に進水した。1962年12月には原子炉が初の臨界に達し、1963年1月10日にはラムスデン・ドックにて初の潜入を実施した。1963年4月17日に就役し、最初期の原子力潜水艦の1隻となった。'Warships of the Royal Navy'', Jane's publishing, ISBN 0-531-03730-4〕。
当初の計画は設計から建造までを全てイギリスが行うというものであったが、先行するアメリカの技術を取り入れ、アメリカの原子力技術を利用することで、大幅に時間が切り詰められた。マウントバッテン卿と当時のアメリカ海軍作戦部長アーレイ・バークとの良好な関係は、アメリカからの助力を得ることを容易にした。このことは、当時のアメリカ海軍における核動力プログラムの責任者であったハイマン・リッコーヴァー少将の反対にもかかわらず進められた。リッコーヴァーはいかなる技術移転にも反対であり、マウントバッテン卿がノーチラスを視察するのを拒んだほどであった。しかし、それも1956年のイギリス訪問までのことであり、リッコーヴァーは反対意見を取り下げた〔Grove, 1987.〕。リッコーヴァーはスケート級に搭載されたS3W型原子炉の提供を望んだが、マウントバッテン卿は自身の影響力を行使し、スキップジャック級の完全な機関部 (S5W型原子炉を含む) に関する技術情報を入手した〔Grove, 1987.〕。この技術情報をもとに建造されたことから、この機関部は「アメリカ区画」 (American sector) と通称されたが〔アメリカ・イギリス相互防衛協定をも参照〕、事実上スキップジャック級の後部船体そのものといって差し支えない。エレクトリック・ボート社の協力を得たことで、船殻形状と建造実務において影響が見られるものの、機関部を除く船殻と戦闘システムの設計はイギリス自身の手によるものである〔Grove, 1987.〕。
ドレッドノートは1959年6月12日に起工され、女王エリザベス2世の臨席のもと、1960年10月21日トラファルガー記念日に進水した。1962年12月には原子炉が初の臨界に達し、1963年1月10日にはラムスデン・ドックにて初の潜入を実施した。1963年4月17日に就役し、最初期の原子力潜水艦の1隻となった。', Jane's publishing, ISBN 0-531-03730-4〕。
当初の計画は設計から建造までを全てイギリスが行うというものであったが、先行するアメリカの技術を取り入れ、アメリカの原子力技術を利用することで、大幅に時間が切り詰められた。マウントバッテン卿と当時のアメリカ海軍作戦部長アーレイ・バークとの良好な関係は、アメリカからの助力を得ることを容易にした。このことは、当時のアメリカ海軍における核動力プログラムの責任者であったハイマン・リッコーヴァー少将の反対にもかかわらず進められた。リッコーヴァーはいかなる技術移転にも反対であり、マウントバッテン卿がノーチラスを視察するのを拒んだほどであった。しかし、それも1956年のイギリス訪問までのことであり、リッコーヴァーは反対意見を取り下げた〔Grove, 1987.〕。リッコーヴァーはスケート級に搭載されたS3W型原子炉の提供を望んだが、マウントバッテン卿は自身の影響力を行使し、スキップジャック級の完全な機関部 (S5W型原子炉を含む) に関する技術情報を入手した〔Grove, 1987.〕。この技術情報をもとに建造されたことから、この機関部は「アメリカ区画」 (American sector) と通称されたが〔アメリカ・イギリス相互防衛協定をも参照〕、事実上スキップジャック級の後部船体そのものといって差し支えない。エレクトリック・ボート社の協力を得たことで、船殻形状と建造実務において影響が見られるものの、機関部を除く船殻と戦闘システムの設計はイギリス自身の手によるものである〔Grove, 1987.〕。
ドレッドノートは1959年6月12日に起工され、女王エリザベス2世の臨席のもと、1960年10月21日トラファルガー記念日に進水した。1962年12月には原子炉が初の臨界に達し、1963年1月10日にはラムスデン・ドックにて初の潜入を実施した。1963年4月17日に就役し、最初期の原子力潜水艦の1隻となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ドレッドノート (原子力潜水艦)」の詳細全文を読む




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